カメントツ先生へのインタビュー
インタビュー:Ayako Zasshi
カメントツは、子ども向け漫画を中心に活動する漫画家で、2015年に『大死刑』で商業デビューしました。
インターネット発の作品からキャリアをスタートさせた、比較的新しい世代の作家の一人です。
現在は、集英社のデジタル漫画誌「ジャンプ+」にて、ホラー作品『こわいやさん』を連載しています。
文:Ayako Zashi
Ayako Zasshi:
『こわいやさん』では、かわいらしさとグロテスクさのコントラストがとても印象的です。 先生の漫画 表現に影響を与えた作品や漫画家の方はどなたでしょうか? また、特に『こわいやさん』におい て、どのような効果や表現を意図して制作されていますか?
カメントツ: 影響を受けた作品や作家は本当に多く、すべて挙げることはできないのですが、今回 は特に絵柄とホラー表現にフォーカスしてお話しします。
まず、もっとも大きな影響を受けた作家としてトーベ・ヤンソン(Tove Jansson)がいます。彼女の作 品にある、やさしく可愛らしい世界観の中に、死や孤独、恐怖といった要素が消臭(デオドラント) されることなく、そのまま存在している感覚は、僕にとって非常に衝撃的でした。
パワフルなハッチングと繊細な線の併存、批評性を内包した物語構造も含めて、子ども向け作品・ エッセイ・恐怖表現を横断的に描く姿勢は、現在の自分の制作スタンスに強く影響しています。 「こわいやさん」で行っていることも、トーベ・ヤンソンの世界観を自分なりに再解釈・分解した結果 だと言っていいと思います。
次に、日本のホラー表現についてです。ここは正直、挙げ始めると「日本のホラー漫画家は全員こ こを通っているだろう」というリストになってしまうのですが、特に重要だと感じているものをいくつか 挙げます。
まず、中山昌亮『不安の種』。2000年以降のネット怪談や都市伝説的恐怖を、ここまでビジュアル として定着させた作家はいないと思います。当時の社会に漂っていた「正体のわからない不安」 や、「結末を持たない記録の断片」としての恐怖表現は、本を開くたびに強烈な影響を受けまし た。
次に、『地獄先生ぬ〜べ〜』(原作:真倉翔/作画:岡野剛)。僕の世代の漫画家にとっては、ほ ぼ例外なく通過点のような作品だと思います。諫山創先生が影響を公言していることでも知られて いますが、妖怪・都市伝説・呪いなど、多様な恐怖表現が詰め込まれた「身近な恐怖の教科書」で した。
そして、水木しげる。日本の小学校の図書室にほぼ必ず置かれている妖怪図鑑の存在が示す通 り、日本のホラー・怪異表現の土台を作った作家です。民俗学と娯楽を接続した功績は計り知れ ません。
もう一つ、非常に重要なのが、作者名のわからないインターネット上の怪談です。現在の日本のホ ラー作家の多くは、名前も顔も知らない「匿名の師匠たち」から学んでいると思っています。
たとえば、「リアル」「八尺様」「くねくね」「地下の丸穴」「鮫島事件」「猿夢」「アガリビト」などですね。 これらは作者が前面に出ないからこそ、純粋に“語り”と“構造”だけが恐怖として残る。「こわいやさ ん」で意識している、“誰が作ったかわからない不気味さ”や、“情報の断片としての怪異”は、強く ここから影響を受けています。
他にも、伊藤潤二、御茶漬海苔、犬木加奈子、日野日出志など、挙げればきりがありません。
『こわいやさん』では、これまで多くのホラー作家たちが通過してきた表現や文脈を一度自分の中 に取り込み、そこから再解釈する、という制作姿勢をとっています。かわいらしさやグロテスクさと いった要素も、単なる対比やギャップとして扱うのではなく、自分自身の感覚や表現性を通して再
構成することを意識しています。単なるデフォルメや記号としてではなく、どこか写実性を感じさせ る存在として描きたいという意識があります。
Ayako Zasshi:
漫画の形式について考えると、コマ割りやその配置、そして絵そのものなど、ページ上に配置され ているすべての要素が非常に重要だと考えています。しかし、批評や分析の中では見落とされが ちなのが、「ページをめくる」という行為そのものが、特定の演出や効果を生み出すうえでいかに重 要か、という点です。
たとえば、前のご回答でも名前が挙がった伊藤潤二先生の作品では、その効果が非常に顕著に 見られます。コマの内容そのものだけでなく、次のページをめくった瞬間に初めて成立する恐怖 や違和感が、強い印象として残ります。
こうした「ページをめくる」という物理的な行為による演出は、先生ご自身の作品や、その影響関係 の中では、どのように位置づけられているのでしょうか。
カメントツ: とても漫画という表現を理解されている質問だと思いました。素晴らしい視点だと思いま す。
確かに「めくり」というテクニックは、漫画において最も原始的で、かつ最も強力な演出装置の一つ だと考えています。脚本や絵と同列、あるいはそれ以上に重要な要素だと思っています。
ご指摘の通り、伊藤潤二先生の作品では、その効果が極めて明確に現れていますし、他のホラー 漫画においても「めくり」は重要なファクターの一つです。印刷物や画像という静的な媒体で表現 する以上、私たちは「めくり」を使わなければ、いわばジャンプスケア的な体験を成立させることが できません。
意識の外から読者の興味を引き、扉を開かせ、そこにサプライズや恐怖を用意する。ホラーにお ける演出は、基本的にその繰り返しだと思っています。
多かれ少なかれ全ての漫画家が、制作において「この情報は今のページで出すべきか、それとも 次のページに預けるべきか」という判断を常に意識しているでしょう。
特に『こわいやさん』では、かわいらしい絵柄や穏やかなテンポがあるぶん、ページをめくった先で 情報の質や空気が急に変わる、その落差をどう設計するかがとても重要になります。安心して読ん でいたはずの流れの中で、質感だけが変わってしまう瞬間を作れるかどうか、という点は常に意識 しています。
ただし、現在の漫画制作は、伊藤潤二先生が大量に作品を発表されていた時代とは、性質が少 しずつ変化してきているとも感じています。かつては「本になる」ことを前提に、見開き=2ページ単 位で「めくり」を設計していました。
一方で現在は、本としてまとめられることを前提にしつつも、スマートフォンで「1ページずつ」読ま れるという性質を無視できません。
漫画用語で言うところの「引き」――次のページをめくりたくなる、次の話を読みたくなる要素は、 従来は見開き単位で配置されるものでした。しかし、ウェブ漫画やスマートフォンで読む漫画で は、ほぼ1ページごとに「引き」を散りばめ、「めくり」を成立させていく必要があります。
ストーリーの流れの中で、どこで区切り、どこに情報を収め、どこを預けるのか。これは非常にパズ ル的で、構成するのが難しい部分です。
ページをめくるという行為は、読者が能動的に物語へ関与する瞬間でもあります。読まされるので はなく、「自分でめくってしまった結果、見てしまう」構造を作れるかどうか。これは恐怖表現に限ら ず、漫画という表現全体において、非常に大きな意味を持つ部分だと考えています。
Ayako Zasshi:
先ほどのお話の中で、楳図かずお先生のお名前も挙げられていました。
その点を踏まえて『こわいやさん』を読んでいると、質感(テクスチャー)の扱いがとても印象的だと 感じました。
場面によっては、ハッチングを多用した非常に密度の高い描写や、さまざまな手法による強い質 感表現が見られます。一方で、人間のキャラクターや、とくに動物キャラクター(グルヌイユやミス ター・バニーなど)では、シンプルで丸みのある、いわゆる「チビ」的で可愛らしい表現が用いられ ており、そのコントラストが非常に明確です。
こうした表現は、楳図かずお先生の作品だけでなく、先生が先ほど言及されていた犬木加奈子先 生の作風とも通じる部分があるように感じました。
このような質感や描写のコントラストは、どのようにして作られているのでしょうか。 具体的にどのような技法を用いているのか、また、そこに込めている狙いや効果について教えてく ださい。
カメントツ: 確かにご指摘の通り、『こわいやさん』ではハッチングや質感表現を強く使い、意図的 にギャップを作ることを意識しています。
ただし、これは私が新しく発明した手法というより、日本のホラー漫画や怪談漫画の中で長く培わ れてきた技術を、自分なりに再解釈したものです。
たとえば「水木しげる 漫画 背景」などで検索していただくと分かりやすいのですが、非常にリア ルで情報量の多い背景やマテリアルと、極端に単純化されたキャラクターが同居している作品が 多く見られます。
このコントラストは、水木作品に限らず、日本のホラー漫画全体で繰り返し使われてきた重要な表 現技法の一つだと思っています。
もともとこれは、漫画という媒体の制約、特に「制作スピード」と「可読性」を両立させるために生ま れた手法でもあります。
読者の視線を強く引きつけたいもの、印象に残したいもの、異常さや不穏さを伝えたいものには、 ハッチングや点描を多用し作画コストを上げる。
一方で、何度も登場するキャラクターや物語を運ぶ存在は、線を単純化し、読者の目が引っかか らずスムーズに読めるようにする。
日本の漫画は読者の読むスピードが非常に速く、ページあたりの情報量が高すぎると、かえって 読みづらくなってしまいます。
そのため、すべてを密度の高い描写で埋めるのではなく、「ここだけは重くする」「ここは軽く流す」 というメリハリが不可欠になります。
モノクロ漫画という形式自体も、その可読性と速度を前提に最適化されてきた表現だと考えていま す。
私の場合、『こわいやさん』では、こうしたホラー漫画特有の技術的手法や制約そのものを、単なる 作画上の都合として使うのではなく、世界観の一部として取り込もうとしました。 かわいらしく単純化されたキャラクターと、異様に生々しい質感やマテリアルが同時に存在する状 態そのものを、「この世界はどこかおかしい」という感覚として成立させたい、という意図がありま す。
ホラー漫画のルールや技術を、表現手段としてだけでなく、作品の構造や世界観にまで落とし込 む。
その点を読み取っていただけたことは、作者として本当に嬉しいです。
Ayako Zasshi:
ここからは、先生の作品を起点としつつ、より広い文脈についてお伺いしたいと思います。
『こわいやさん』第26話を読んでいて、異なる世界観の構築や、複数の作画スタイルの使い分けを 通して、いわゆる「データベース的」な構造との非常に親密な関係を感じました。
アニメや漫画の産業全体に目を向けると、こうした「グラフィックなモデルを基盤としたデータベー スの構築」は、決して珍しいものではなく、むしろ一般的な現象にも見えます。
そこでお聞きしたいのですが、
先生はこのような構造が、オタクたちがアニメや漫画、ゲームといった作品が、ファンの皆さんの人 間関係や、他者との向き合い方にまで影響を与えていると感じることはありますか?
カメントツ: なるほど、そこまで踏み込んで読んでいただけているのは、とても嬉しいですね。
ご指摘の通り、『こわいやさん』第26話には、いわゆる「データベース的」な構造との距離の近さが あると、自分でも感じています。
そもそも、現在のインターネットやSNSの環境そのものが、かなり ニューロマンサー 的だと感じてい ます。油断すれば脳を焼かれかねない情報が、常に無差別に漂っている。
陰謀論や犯罪につながる知識、知りたくなかった世界の裏側、うっかり辿り着いてしまう性趣向や 価値観——一度知ってしまえば、生活や性格、倫理観まで簡単にズレてしまう情報が、誰の手に も届く距離にあります。
そういう意味で、ニューロマンサーに描かれていた「不用意にアクセスすると人格や人生が破壊さ れる情報空間」という恐怖は、かなり予言的だったと思います。
日本を舞台にした小説を書いた ウィリアム・ギブスン は、かなりの精度で未来を見ていた。第一章 が「千葉・シティ・ブルース」だからね。
冗談半分、本気半分で言えば、日本は「未来的で、やばい物語に溢れていて、油断すると脳を焼 かれかねない」危険なサイバーパンク最先端国家なのかもしれません。
それらの影響を受けた 攻殻機動隊 をはじめとする、データベースと関わる物語作品群が長く支 持され、海外でも強く認知されているのは、その象徴的な例でしょう。
この視点で見ると、海外にまで届く作品ほど、物語単体というよりも、参照可能な世界観・モデル・ ルールの集合体としての側面、つまりデータベース的な構築を内包している印象があります。日 本国内で大きな人気を獲得した作品の中から、さらに海外へ広がっていくものには、個別のキャラ クターやエピソードを超えて、「読み替え」や「接続」が可能な構造が備わっている。
また、日本の特殊性として挙げられるのは、物語やキャラクターに触れる量の圧倒的な多さです。 漫画・アニメ・小説といった物語メディアへの接触頻度が非常に高く、しかも漫画は、個人が制作 できる総合芸術として、今なお日本のエンターテイメント市場の中心にあり続けています。
大量の共通した物語が存在する環境では、ミームの拡散速度が速くなり、同時に「意味の圧縮率」 が非常に高くなる。「あの作品のあの感じ」「あのキャラの立場」といった一言で、複雑な感情や状 況が一気に共有できてしまう。
個人的な体験として強く結びついているのが、∀ガンダム における「黒歴史」という概念が、一般 層にまで広く伝播し、日常的な言葉として流通していったことです。2000年代に子どもだった私に とって、これは非常に印象的な出来事でした。
アニメに特別な関心のない人たちでさえ、「黒歴史」という言葉を、ごく自然に使っていた。本来 は、人類が繰り返してきた戦争や失敗、文明崩壊の記憶を一括で束ね直すための、かなり重たい 物語装置だった概念が、「自分の後ろめたい過去」「思い出したくない失敗」といった、極めて日常 的で個人的な意味へと圧縮されていった。
興味深いのは、こうした圧縮された言葉が、必ずしも元の物語に触れていない人たちにも普通に 使われるようになるという点です。物語を直接体験していなくても、意味の圧縮率が高い言葉だけ が社会に流通し、日常語として機能してしまう。
そしてこの現象は、インターネットの普及によって、さらに加速しました。ミームはより速く拡散し、言 葉はより短く、より多くの意味を背負わされる。
そう考えると、日本人は、物語そのものというよりも、圧縮された物語=データベースの断片を共有 しながら会話している状態に近いのかもしれません。
多くの物語に触れ、それらを圧縮し、再利用する。その結果として、物語に直接触れていない人さ えも、高い圧縮率を持つ言葉を日常的に使うようになる。そうした環境そのものが、日本の創作や コミュニケーションの土壌を形作っているように感じています。
Ayako Zasshi:
先生の作品を読み進める中で、少なくとも西洋で一般的に想定されている「漫画」のイメージとは、 どこか異なる感触があるように感じました。この点は、漫画という表現形式そのものが、大きく変化 してきていることを示しているのではないか、とも思っています。
近年の漫画は、より「自動的に読まれる」ことや、深く考えずに消費される読書体験を前提として制 作される傾向が、強まっているようにも見えます。
そうした状況の中で、漫画家として先生は、この関係をどのように捉えていらっしゃいますか。 また、現在の漫画表現や創作の状況について、どのようなお考えをお持ちでしょうか。
カメントツ: なるほど、とても本質的なご質問だと思います。
確かに日本の漫画は、「深く考えずに消費される読書体験」を前提として制作されてきた側面があ ります。これは、漫画がもともと芸術作品というよりも、広い大衆に向けた消費物として生まれたメ ディアだからではないでしょうか。
例えば、漫画がモノクロで制作されてきた理由も、表現上の必然というより「安く大量に印刷でき る」という経済的要請が大きかったと思います。その結果、じっくり鑑賞するものというより、流れるよ うに読む文化が形成されました。
現在はデバイス上で読むため、カラーでもモノクロでも表示コストはほとんど変わりませんが、それ でも多くの漫画がモノクロで作られ続けているのは、この読書習慣が今も継承されているからだと 思います。
こうした「消費物としての漫画」を前提とした構造には、明確な問題も生まれています。これは私の 感覚的な印象というより、現在の出版業界が直面している課題として、友人の作家や編集者たち から繰り返し聞く話でもあります。
特に深刻なのは、子供向け漫画作品が著しく減っているという点です。現在の漫画市場は、お金 を持っている大人や、スマートフォンやタブレットを自由に使える層を中心に拡大しています。
一方で、子供たちは自由に使えるお金が少なく、「自分で漫画を買う読者」としては弱い立場にあ ります。その結果、「子供が読みたい漫画」よりも、「大人が子供に読ませたい漫画」や「大人が自 分のために読む漫画」が増えていった。これは構造的な変化だと思います。
また、大人向け市場では、ゴア表現、強い暴力性、恋愛やアダルト表現といった要素の方が評価 されやすい傾向があります。その結果として、純粋な冒険譚やファンタジーといった、子供の入り 口となる漫画が相対的に減っているように感じます。
私はこの状況を、とても危惧しています。なぜなら、私自身が子供の頃に漫画に触れた経験が、 そのまま現在の仕事につながっているからです。これは作家だけでなく、読者にとっても同じだと 思います。
子供のうちに物語に触れ、文化としてそれを受け取る。その結果、大人になっても漫画を読み続 ける。そうした循環があって、はじめて文化は継承されていきます。
実際、私自身も『こわいやさん』は大人向けのホラー作品ですが、その前には子供向け作品を描 いていました。『こぐまのケーキ屋さん(Baby Bears Bakery)』は複数言語に翻訳され、海外でも読 まれました。
この経験は、『こわいやさん』のキャラクター造形にも大きく影響しています。マーケットの規模だけ でなく、作家の経験としても、子供向け作品は非常に重要な意味を持つと感じています。
またマーケットという観点では、ゲームとして誕生したマリオやポケモン、映画として誕生したディズ ニー、ピクサー、マーベル、スター・ウォーズのように、「子供向け作品で将来の観客を育てる」こと が、結果的に巨大な市場と文化継承を生み出す例もあります。
日本の漫画産業では、この長期的な視点があまり強く意識されていないようにも感じます。どうして も、「今いるユーザー」「今お金を払う層」への反応が優先されてしまう。それは短期的には合理的 ですが、長期的には文化そのものを痩せさせてしまう危険性もあります。
少しネガティブなことばかり言ってしまったので、良い点もお話しますね。
日本の漫画文化には、大衆的な消費物でありながら芸術でもあるという、独特の二重性がありま す。例えば、日本の伝統芸術である浮世絵や歌舞伎も、もともとは大衆的な消費物でした。歌舞 伎は現代で言えばポップスターの公演のような存在で、浮世絵は新聞や絵葉書に近い消費物で した。
それが現在では、世界中で公演を行ったり、美術館に展示される芸術として扱われています。 大衆文化 → 芸術 → 新しい大衆文化
という循環が、短いスパンで起こる。漫画も、その系譜にあると私は考えています。
現在の漫画は、読み飛ばされることを前提に設計されたメディアです。読者の読むスピードは非 常に速く、流れるように消費される。しかし、その強い制約の中でも、芸術的な表現は可能だと 思っています。
私自身の制作姿勢として大切にしているのは、「入口は広く、メッセージは深く」ということです。最 初は読みやすく、軽く、喉越しの良い作品であること。しかし読み進めるうちに、社会的な問題や 風刺、重たいテーマに触れていく構造を作る。
『こわいやさん』も、表面上は怪異やモンスターの物語ですが、人間関係の歪みや社会問題など が怪異と結びつくエピソードをいくつか配置しています。
消費されるメディアであることと、意味を持つ芸術表現であること。この二つは対立するものではな く、同時に成立しうる表現だと、私は信じています。
Ayako Zasshi:
先ほど、紙の単行本とデジタルで読む漫画とでは、演出の受け取られ方に違いがあるというお話 がありましたが、その点について、もう少し掘り下げてお伺いしたいと思います。
デジタルでの制作・発表が一般化し、新しいツールやプラットフォームが増えたことで、漫画の制 作環境や産業そのものも大きく変化してきました。
そうした状況の中で、従来の紙媒体を前提としたコマ割りや構成と、デジタルを前提とした漫画表 現とのあいだには、どのような技術的・構造的な違いがあるとお考えでしょうか。
また、こうした新しい制作・発表ツールを通して、読者に対してどのような新しい効果や体験を生み 出すことができるとお考えですか。
カメントツ: ご質問の通り、紙とデジタルでは、漫画の受け取られ方や構成に、少しずつですが確 実な変化が生まれていると感じています。ただし、漫画という表現自体はまだ非常に若いメディア であり、「完全に別物になった」と言えるほどの断絶があるわけではありません。むしろ、変わらない 部分と、技術的に変化してきた部分が併存している状態だと思います。
大きな変化のひとつは、「読者」という存在が、より具体的に可視化されたことです。SNSやウェブ 公開を前提とした制作環境では、読者の反応が即座に数値やコメントとして返ってきます。その結 果、漫画はより多様な方向へ分岐していきました。
従来の紙媒体では、少年漫画、少女漫画、青年漫画、アダルト作品、レディコミなど、ターゲット層 が比較的はっきり分断されていました。それぞれの雑誌ごとに読者像が想定され、その枠組みの 中で表現が最適化されていたと言えます。
しかし、インターネットやSNS上では、作品はまず「個人の発表物」として流通します。そこでは年 齢や性別、ジャンルの壁を越えて、同じ作品が同時に多様な層へ届く可能性があります。この横 断的な流通構造が、新しいタイプの漫画表現を生み出していると感じています。
象徴的な例が、ちいかわ の存在です。ちいかわは現在、日本のファンシーキャラクター市場にお いて非常に重要なポジションを占めています。学生のリュックや子どものTシャツなど、日常生活の あらゆる場面で目にします。ハローキティやミッキーマウスのような世界的キャラクターと並ぶ存在 になったと言っても、過言ではないでしょう。
この現象は、インターネットという発表の場がなければ起こりえなかったと思います。ちいかわは、 子ども向けの可愛らしいビジュアルと、大人が読み取るシニカルさや残酷な現実感という、明確な 二重構造を持っています。
私は個人的に、ちいかわを アドベンチャー・タイム に近い作品だと感じています。可愛らしさと不 条理さ、軽さと重さが同時に存在する構造です。これは、紙媒体のようにターゲット層が固定され た環境では生まれにくく、ウェブという「誰に届くかわからない場」だからこそ成立した表現だと思い ます。
また、新しいツールによって生まれた効果として、キャラクターそのものが独立して流通すること、 物語よりも先にビジュアルが共有されること、漫画とキャラクタービジネスが直結すること、といった 現象も顕著です。これは、制作環境の変化が読者体験そのものを変えている例だと言えるでしょ う。
総じて言えるのは、デジタルによって漫画は「読むもの」から「共有されるもの」へと、その性格を強 めたという点です。従来の紙の漫画は、雑誌を買い、ページをめくり、物語として体験する、という 線形の読書体験でした。
現在は、画像として出会い、キャラクターとして認識し、ミームとして拡散される、という多層的な体 験へと変化しています。新しい制作・発表ツールは、読者に対して「物語を読む」だけでなく、 「キャラクターや世界観と日常的に関係を持つ」という体験を生み出しているのではないでしょう か。
その意味で、紙とデジタルの違いは、単なる媒体の差ではなく、漫画が社会の中でどのように存 在するか、という構造の違いになりつつあると感じています。
技術的な違いという点で言えば、構成そのものにも変化があります。もう少し根本的なテクニカル な話をすると、私が特に意識しているのは、「読まれるデバイスが小さくなっている」という点です。
本来、単行本という媒体は、手のひらからはみ出るくらいのサイズで読むものでした。日本の出版 サイズでも、食パンより少し大きいくらいの判型です。しかし現在、読者の多くはスマートフォンな ど、はるかに小さな画面で漫画を読んでいます。
そのため、文字量が多すぎると読みにくくなり、途中で読むのをやめてしまう可能性が高くなりま す。私は意識的に、従来よりも文字のポイント数を大きくしています。これは多くの漫画家や出版 社でも共有されている工夫だと思います。
また、1ページあたりのコマ数も減ってきていると感じます。実際に減少しているという話もよく聞き ますし、画面サイズに適した、よりコンパクトな構成が求められているのだと思います。
制作工程においても、私はアナログとデジタルを横断して作業しています。まず物語構成をデジ タルで組み立て、下描きを作り、それをプリントアウトしてアナログでペン入れをし、再びスキャンし てデジタルで仕上げる、という方法です。
このように、現在の漫画制作は単純に「デジタル化した」というよりも、アナログとデジタルをどうバラ ンスよく使うか、その設計自体が作家の表現の一部になっていると感じています。どの技術をどの 段階で使うのか。その選択そのものが、作家の個性や才能、いわばタレント性として表れてくる時 代になっているのではないでしょうか。
Ayako Zasshi:
最後に、現在の子ども向けの漫画の状況と、それについての先生ご自身の見解を、漫画家として の立場からお聞きしたいと思います。
現代社会では、商業的な要求が絶えず生み出され、より速く、より簡単な刺激を求める傾向が強 まっているように感じます。
そのような状況の中で、子ども向け漫画を通して、どのようにこのロジックから離れることができるの でしょうか。
また、消費の自動化が進む現在の文脈の中で、
人生の早い段階から、芸術とより繊細で深い関係を築いていけるような読者を育てることは可能だ とお考えでしょうか?
カメントツ: 現代社会は、かつてないほど強い刺激を持つ情報にあふれています。特に子どもを 取り巻く環境においては、ネットいじめ、加害的な大人との接触、炎上、過剰な自己評価や他者評 価、有害情報や依存的なコンテンツといった問題が、すでに世界共通の課題となっています。
また、コンテンツそのものも高速かつ大量に供給され、人々の可処分時間を奪い合う構造が生ま れています。そこには強い資本主義的論理や中毒性が組み込まれ、「より速く、より強い刺激」を 求める循環が加速しているように感じます。この傾向は、AIによる個人最適化によって、今後さら に強まっていくでしょう。
一方で、私は個人的に「インターネットに育てられた世代」でもあります。現在の自分の価値観や 表現、そして仕事そのものは、子ども時代に触れた露悪的なネットミームやホラーコンテンツ、匿 名文化がなければ成立しなかったでしょう。
インターネットは、物語や漫画、音楽、海外文化に出会う入口となり、同じ趣味や感性を持つ人と つながる場でもありました。それは私自身を育てた重要な文化的基盤でもあります。その意味で、 刺激的なコンテンツやインターネット文化は、単純に否定されるべきものではありません。多くの子 どもや若者を育ててきた「文化の土壌」であり、新しい感性や表現を生み出す源泉でもあると考え ています。
ただし現在の環境は、私が子どもだった頃と比べて、はるかに速く、はるかに強く、より過激になっ ていると感じる人が多いのも事実です。そのため、オーストラリアで進んでいる未成年のSNS利用 制限のように、子どもを刺激的なコンテンツから距離を取らせようとする動きは、今後さらに強まっ ていくでしょう。
こうした状況の中で、私は今後グローバルなマーケットで生まれる新しい子ども向け漫画は、子ど もたちと世界が健全につながるための、非常に重要なメディアになり得ると考えています。
漫画には、現在主流となっている高速で消費されるデジタルコンテンツにはない、固有の特徴が あります。漫画の定義のひとつに、「現時性と線上性とが複合した一連の絵である」という考え方が あります。
現時性とは、ページ全体を一望し、同時に把握できること。線上性とは、時間の流れに沿って、部 分を順にたどりながら理解していくことです。つまり漫画は、コマごとに立ち止まり、一つひとつの 場面を眺めることができると同時に、物語全体を一本の「線」として追い、理解することもできる、と いう二重の読み方を可能にするメディアです。
部分としても読めるし、全体としても読める。この構造そのものが、現在の「速く、強く、次々と流れ ていく刺激的なコンテンツ」に対抗しうる表現形式なのではないかと、私は思っています。
動画やSNSのコンテンツは、基本的に流れていく時間の中でしか体験できません。しかし漫画は、 読む速度を自分で決めることができ、戻ることも、止まることもできます。その意味で漫画は、子ど もたちが世界や物語と、より穏やかで能動的な関係を結ぶための、重要な「間(ま)」を持ったメディ アだと言えるでしょう。
実際、こうした体験を子どもたちに与えたいと願っている親は、想像以上に多いのではないかとも 感じています。
現在、日本もブラジルも少子化が進んでいます。しかし私は、それを単なる危機ではなく、新しい 可能性だとも捉えています。ブラジルには『トゥルマ・ダ・モニカ』、日本には『ドラえもん』のように、 何十年にもわたって子どもたちに読み継がれてきた作品があります。こうした長寿作品が存在する 一方で、新しいグローバルな子ども向け漫画が求められる時代になっているとも感じます。
だからこそ私は、日本だけでなく、ブラジルを含むグローバルな子どもたちに届く作品を作りたいと 考えています。新しい視点を持った物語を通して、新しい風を吹き込みたいのです。
現在私は、『マトリックス』や『攻殻機動隊』、『ニューロマンサー』のような、本来は大人向けのテー マを、子ども向け作品として表現する構想を進めています。このジャンルを通して、人間の多面性 や多様性、社会の仕組み、利他的な行動といった問題を、子どもたちが自然に考えられる物語を 作りたいと思っています。
消費が自動化され、刺激が高速化していく現代だからこそ、子ども向け漫画には、「立ち止まって 考える時間」や「感情をゆっくり育てる体験」を与える役割があるはずです。それは単なる理想論で はなく、漫画家としての生存戦略であり、同時に未来への責任でもあると感じています。
子どものうちに、物語やキャラクターと深く関わる経験を持てる可能性を提示する作家でありたい と、私は思っています。

